「自由」の本質 2025.07.09

最近親しい友人に子どもが産まれ、社会問題について考えることが多くなりました。 その中でも度々問題になる『ネット社会』について… 今はSNSや掲示板、動画投稿サイトなど、誰もが情報発信者となり、どこからでも意見を発信できるようになりました。 「誰もが気軽に発言できる」という民主主義的な社会が実現したわけですが、その実状は「自由」や「多様性」を都合のいい言葉として理解した人たちが、匿名性の背後に隠れ、他者を攻撃する悲しい社会です。 本来『言論の自由』は、あらゆる意見が尊重されると同時に「その自由を乱用しない」という倫理の上に成り立つものであって、発言には責任が伴い、ある程度の知識や経験、そして相手への敬意が求められてきました。 ですが今のネット社会ではその前提が崩れ、「自由な発言」という名の無責任な言葉が「無秩序な暴言」として形を変え、人を傷つけています。 他者への中傷や無根拠な批判、偏見や差別を含んだ発言を「個人の自由な意見だから」と正当化することは、はたして『言論の自由』と言えるのでしょうか…。 誰でも発信する力を持った今こそ、「何を言うか」だけでなく、「どう言うか」「言うべきかどうか」を一人ひとりが考え、相手がどう受け取るかも考えて、思いやりと自分の言葉に責任を持つことが大切だと感じる今日この頃です。 Text/Katakura